自分が、回り回って結局「表現者」という意味のアーティストになって来ている人間ですが、

今までの人生で美術以外の表現作品たちを好んで観漁ったことは実はない。

映画もテレビドラマも、演劇も舞台も音楽も、ほとんど触れてきていない。

自分の人生でこれまでやって来たことで心も体も忙しすぎて、

外を見て回る時間も心の隙もほとんどなかったんじゃないかと振り返る。

物心ついた頃から、いろんなことをしてみたくなる性分で

習い事は一度に6種類も抱えていた時期もあった小学生時代だった。

算盤、習字、ピアノ、家庭教師、学習塾、ジャズダンス、

色々。今思えば気が狂ってるんじゃないかと思うし、めちゃくちゃ贅沢!!

中学時代は唯一の休息時間のようにまったりダラダラ過ごしていたけど

学校で倒れ、救急に運ばれるほどおかしくなり、そのまま体調を崩した。

スーパー忙しかった時の方が元気だった。

わたしの体調不良は、体を動かすことで改善すると言われ、

高校からいきなりバスケ部に所属して

そこからはもうバスケ一色になってしまった。

高校卒業して渡米した後も大学の授業と課題とバイトと。

全然余裕なし!苦笑。

なので、全然エンタメを楽しむ機会はほとんどなかったんだよね。

帰国した後も即就職してからというもの、またまた新しい世界になれるのに必死すぎて

体調崩して挫折して。余裕ない!笑

運良く私という個人をまるっとそのまま受け止め認めてくれる

ソウルメイトとも呼ぶべき夫に出会いそのまま子育てに突入して今に至るわけです。

こうして文字に起こすと、平穏な何もない時期は私の人生になかった感じですね汗。

大学で専攻したものとは別の、グラフィックデザインというものに出会ってから

私の人生が本来の場所へ戻ることになっていったことも必然だったように今は思います。

「アーティストとして何かを表現することで、目に見えない何かを伝えること。」

子供の頃に何気なく好きだったイラストや習字、ものづくり全般。

教えてもらったことはないけど、自然にできて自然に楽しめていた。

それこそが自分という人間を活かす道だったと

気づいたのは、回り回って結局ものづくりにたどり着いた40代の自分でした。

漠然とジャンルを問わずものづくりだけはいつもいつも私のそばにいて

必ず自然に欲求が湧いて出る行為だったけど、

その中でももっとピンポイントで私がしたいことがある気がして

まだまだ自分の本当にたどり着けていない感覚があったので

ずっと模索していたのです。

もう見つけようとしたら霧がかかって見えない、の繰り返しですごく苦しいのです。

そんな私に衝撃を与えたのは、7月に急逝された三浦春馬さんだった。

きっと、あんな風にお亡くなりにならなかったら私は彼のことを見る機会はなかったと思う。

だって全くテレビを見ないんです、私。

子育てと家事と創作活動で目一杯で。

2019年のFNS歌謡祭でキレキレのダンスと難しそうな楽曲を披露されているのを

偶然拝見してびっくりしたのが一番新しい記憶でした。

俳優さんなのに、こんなにダンスも歌も上手いなんて!!!って。

それまでの彼の輝かしく見える功績は全く知らずにいました。

こんなに輝いている人がなんで死ぬことになるのかが気になって気になって。

身内が亡くなったかのように泣けて泣けて、悲しみを長らく引きずることになってます。苦笑

それから、彼の過去の作品や、番宣などで語る彼の言葉を見る旅に出ました。

何か見つけないといけないものがあるような気がして。

彼は、完璧すぎる容姿と醸し出す優しさとなんとも言えない気品のある雰囲気と、

人を惹きつける笑顔を持つ天使みたいな人だったんだな、

ということを知れば知るほど、また悲しみが襲いかかりますね。

もう一つ私個人が感じたのが、彼はただ単なる「イケメン俳優」という言葉では表現したくない、

もっと深いものを伝えるメッセンジャーとしての「表現者」だったんじゃないかと思ったのです。

一つ前の投稿でも書きましたが、

彼の死すらも何かを伝える出来事になったんじゃないかと思っています。

きっと彼が出演したこれまでの作品は、興行収入や視聴率などの物質的結果だけでは語れない、

もっと意義のあるメッセージが意図されているのではないかと思ったのです。

なので、できる限り彼の出演作品を見てみよう、

鑑賞できた作品について思ったことを綴っておこうと思ったのです。

イケメン俳優を眺めるためではなく、彼が関わった作品のメッセージを見るために。

自分とは違うジャンルの表現者の作品に触れること。

方法は違えど、伝えたいメッセージには共鳴する自分がいて。

全身全霊で表現した彼の演技に感服し、また、

「彼ほど全身全霊で表現できているのか?」と自問自答することになり。

結果、自分自身のいろんな感覚を思い出す作業になった気がするのです。

自分の中核をあぶり出すために自分と向き合う努力をしがちだけど、

むしろ、自分以外の表現者のメッセージ性を自分なりに読み解こうとする過程で、

揺さぶられた自分の感情や感覚に気づくことの方が、

自分の中核に迫ったような気がしています。

非常に興味深い結果になりそうな予感です。

自分のピンポイントが見つけられずもがいている私ですが、

「ジャンルの存在しないもの」「表現者」「伝言」

そんなキーワードが浮かび上がって来て。

結果、「アーティスト」であるということなのかな、と今の所感じでいます。

なんだろう、自分の肉体も精神も全てを捧げられたとき、自分の中核に触れるのかもしれない。

何もしないでただ見つけようと努力するのではなく、

浮かぶ作品を作り上げる行為の連鎖と深さが積み上がらないと行き着けない場所なんではないかと思う。

なので、ただひたすらに動き続けるしかないのだと、

ただひたすらに小さい一つ一つを丁寧にするしかないのだという気持ちになっています。

失ったことで知ることもあり、学ぶこともある。

三浦春馬さんの死は、私にとって有名人の死というよりも大事なことを伝えてくれる天使の叫びでした。

まだまだ悲しみは消えないけれど。ありがとうございました。

違うジャンルの表現者の作品にも触れて、

なんの色眼鏡もかけずに鑑賞し感じたものを受け取る。

いち表現者としてやってみたいと思います。

そして、全身全霊の魂を持って自分らしく生きていこう。

One thought on “「違う表現者の作品を感じるということ」”

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です